【徒花】02
2020.07.29
「ひゃあっ……!」
突如繋いでいた腕が小さな悲鳴と共に離れる。イリスが反射的に足を止めて振り返ると、アネモネが地面に臥せって倒れていた。
「大丈夫?!」
イリスが慌ててアネモネに駆け寄り上体を起こすのを手伝うと、彼女はひどく息が上がった様子で喘ぐように「ごめんなさい」とつぶやいた。
「わ、私……もう、走れない、かもっ……」
「……」
アネモネの苦し気な訴えに、イリスは諦めたように小さくため息を吐いた。そんな彼の様子を見て、アネモネが再度謝罪を口にする。
「ごめん、なさっ……私が逃げたから、こうなってるのに……」
「謝らないで。私、『ごめん』って言葉、好きじゃないから」
「え、ごめんなさ……あっ……」
つい謝罪が口をついて出るのは、アネモネの元々の性格なのだろう。腰まで届く長い髪の色と同じである彼女のミントブルーの猫耳が、謝罪ばかりを繰り返してしまう自身に対して申し訳なく思うのか項垂れている。それを見てイリスは苦い表情を浮かべつつ少しだけ笑った。
「まぁいいや。もう走れないんだよね?」
「うぅ……が、がんばれば、すこし……いけるかな……? だめ、かも……」
「まぁ、無理だろうね。……それなら、覚悟決めるしかないか」
自分たちを捕えようとする人々の足音と声が近づいてくる。不安げな表情で自身を見上げてくるアネモネを一瞥し、すぐにイリスは鋭い眼差しを迫りくる喧噪へと向けた。
「悪いけど、私は君を守れるほど強くはないよ」
「ふぇ……!? は、はい……」
「でも、手を差し伸べたのは私だから……一応、その責任は取る。どんな手を使ってでも、ね」
「え……?」
鋭い視線を前方に向けたままでかけられたイリスの言葉に、アネモネは戸惑った表情を浮かべる。しかしずっと”塔”の部屋の中で過ごしていた彼女は戦い方など知らないし、今の体力的にも足手まといでしかない。彼女はイリスの言葉に戸惑いつつも、彼に頼るしかないと素直に頷いた。
アネモネが頷くのを横目で見遣り、イリスは小さく口を開く。
「とりあえず……」
か細い月明かりだけが頼りの森の中で、イリスはおもむろに周囲を見渡す。微かに光を帯びたイリスの眼差しは、周囲に身を隠すことが出来そうな場所が無いかを探していた。ほとんど闇一色ともいえる森の中であるが、幸いイリスもアネモネも猫耳を有する種族の特性として、闇の中でも比較的ものを見ることが出来るのだ。すぐに彼の視線は大きな茂みを見つけて停止した。
「まずは、あそこに隠れよう」
囁くような声で声でそうアネモネに告げ、彼女の腕を取って共に立ち上がる。そしてイリスはフラフラとおぼつかない足取りのアネモネの手を引き、二人は茂みに身を隠して息を潜めた。
しばらくそうして身を潜めていると、数人の男たちが傍を駆けていく。その一瞬、気配を隠そうと俯いて膝を抱えていたアネモネの肩が僅かに強張った。
イリスは頭部の猫耳を小さく揺らしながら注意深く音を聞き、男たちの気配が遠ざかるのを待つ。
追跡者たちの持つ松明の光が残像となって森を駆け、やがて明かりと共に彼らが遠くなると、イリスは小さく震えていたアネモネの肩にそっと手を触れた。
「よかった、一先ずやり過ごせたみたい」
イリスが小さくそう声をかけると、アネモネは不安げな表情をしながらゆっくり顔を上げる。彼女の体はまだ恐怖に震え、それは肩に触れた手からイリスにも伝わった。
「大丈夫だよ。そんなに怖かった?」
「う、うぅ……はい……」
コクコクと何度も頷きながら答えるアネモネの様子を見て、イリスは何度目かの苦笑を漏らす。気休めくらいにしかならないだろうと思いながら、彼はもう一度「大丈夫」と言った。
「何も考え無しに君を逃がそうと行動したわけじゃないしさ。何かあっても、私が何とかするよ」
「……そ、そいえば、イ、イリスさんは……なぜ、私を逃がしてくれたのですか?」
僅かに顔を上げたアネモネは、イリスへとそう問いを向ける。このタイミングでそれを問われるとは思っていなかったようで、イリスは一瞬目を丸くした。
「あ、ご、ごめんなさ……」
目を丸くするイリスの反応を見てか、アネモネがまた謝罪を口にする。イリスは呆れたようにため息を吐いてから、こう答えた。
「君を逃がした理由は……私も、自由になりたかったから、かな」
本当は”それ以外の理由”もあったが、とりあえずイリスはそう答える。すると今度はアネモネが驚いた様子で目を丸くした。
「じ、ゆう……? なぜ、ですか……?」
首を傾げるアネモネの頭部にある猫耳もが不思議を問うようにピコピコと動く。その動きに少し笑いつつ、イリスは理由を続けた。
「私はあなたを監視する一人だったんだよね」
「あ……はい、知って、います……時々、部屋の外、あなたのこと、見てました……」
「え?」
「知っている」と、そう答えるアネモネの言葉はイリスには意外なものであった。
「私のこと、見てた……?」
「あっ、は、はい……」
イリスが知る限りでは、アネモネはいつも部屋で一人読書ばかりしている少女であった。時折小さな窓から外の様子を眺めている姿もあったが、彼女が外にあるものに興味を持っているようには見えなかった。だから彼女に対する自分の興味は一方的なものであると、イリスは無意識に思っていたらしい。それが、彼が驚きの反応を見せた理由だった。
「す、すみませっ……わたっ、私、勝手に、見てて……」
「いや、そこも別に謝るところじゃないけど……」
「は、はい、そっか……そうですよね……」
なぜか申し訳なさそうにどんどんと頭を垂れていくアネモネを見兼ねてか、イリスは彼女のむやみな謝罪に対して突っ込みを入れることはやめる。
「それじゃあ、他の監視のことも見てたの?」
イリスがそう問うと、アネモネは僅かに視線を上げて小さく首を横に振った。
「? どういうこと?」
「あっ……えと、見てたのは、あなただけ、です……」
そう答えてからアネモネはなぜか照れたように頬を赤くさせる。
「あっ、あ……違うんです、えっと……見てたというか、部屋の外で見かけた人、で……覚えてたのは、イリスさんだけで……」