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【徒花】01

2020.07.28

 薄暗い牢獄のような部屋の中で、彼女はいつも一人でいた。
 その部屋の中にあるのは質素なベッド、使い古された木製の机と椅子、古い魔術書が数冊収まった痛んだ本棚だけ。
 それ以外のものは何もなく、また、食事を運ぶ以外で誰も彼女と接触する者はいない。
 彼女の”監視”を任されている私も、彼女のいる部屋の窓から中の様子を覗き込み、遠巻きに眺めるだけで声をかけたことはない。
 だから彼女は、きっと誰かと言葉を交わしたことはないのではないだろうかと私は思う。
 彼女にとっての世界は、娯楽も情報も極端に少ない、人との接触もない狭く閉ざされたその部屋だけだった。

 自由を好み、まだ見ぬ広い世界に憧れる私には絶対に耐えられない環境だ。
 しかし彼女は自分の境遇を受け入れているのか、毎日その場所で静かに過ごしていた。
 彼女は昼間は小さな窓の隙間から入る日の光で、夜は青白く輝く月の光を頼りに本棚の魔術書に目を通す。
 もうとうの昔に本棚にある魔術書全てを読み終えたはずなのに、同じ本を何度も手に取り繰り返し読み直している。
 彼女の世界は閉ざされているだけではなく、時間すらも停止しているようだった。

 気づいた時から彼女にとっての世界は『ここだけ』で、彼女はそれ以外を知らないのだから、広い外の世界に憧れもしないのだろうか。

 私にとって……いや、多くの人にとって地獄でしかない環境で暮らす彼女だが、不思議と彼女の表情に絶望した様子はなかった。
 笑顔が多いわけでもないが、紫電の色を宿す彼女の瞳に濁った感情は決してなかった。
 それどころか、か細い光の中で見える彼女の横顔は時折凛としていて美しいとさえ思う。
 当初の私はただ役目として彼女を監視しているだけで、それ以上の興味を彼女には抱いていなかったと思う。
 しかし、いつしか狭い世界の中で粛々と生きる彼女の姿に強く興味を持つようになっていた。

 なぜ彼女はこの狭い世界で生きることに絶望しないのか。
 なぜ彼女は変化のない毎日を繰り返しながら狂わずにいられるのか。

 何も望まず、不満も口にせず、一人孤独に生きることを強いられている自分の状況を、ただあるがままに受け入れている彼女。
 彼女は本当は何者なのだろう。

 牢獄のような部屋に閉じ込められている彼女だが、彼女自身が何か罪を犯したわけではない。
 ただ彼女は生を受けた時から”罪”そのものだった。彼女が今こうした境遇にいる理由は、ただそれだけ。
 ”罪”である彼女に人々は畏怖し、彼女に関わることを拒んだ。
 しかし彼女を野放しにすることも恐れ、人々は彼女を目の届く場所に閉じ込めて誰かに監視させることにした。

 そして私は彼女を――”罪”を監視する存在。

 本当に?
 本当に彼女は”罪”であるのだろうか?
 今ここにいる彼女は、本当は何者なのだろう?
 罪と呼ばれる彼女は一体……

 彼女への興味はいくつもの疑問となって溢れ、やがてある夜に私は禁忌を犯す。
 か細く頼りない月明かりの下、私は彼女の狭い世界の扉を開ける。
 初めて真正面から見た彼女は、青白い月明かりの下でひどく驚いた顔をして私をまっすぐに見つめていた。

「ねぇ、私と一緒にここから逃げ出さない?」

 それが、私が彼女に初めてかけた言葉。



◇◆◇


 彼女が差し出した自分の手を握り返したことは、彼にとっては予想外の出来事であった。
 そして自身が躊躇なく彼女の手を引き、共にあの牢獄の塔を抜け出したこともだ。

 唯一予想通りだったことは、彼女を部屋から逃がしたことがすぐにばれて、村の住民たちに共に追いかけられている今の状況。
 些かばれるのが早すぎるようにも思ったが、それだけ彼女は危険な存在であり、自分以外の存在にも厳重に監視されていたのだろう。
 とにかく捕まらぬよう逃げねばと、彼は彼女の手を引いて事前に考えていた逃走ルートの森の中を駆けていた。


「あのさっ、もう少し早く走れない?!」

「うぅ……ごめんな、さ……、ええと……あなたの、名前……」

「イリス!」

「い、イリスさん……あ、わ、わたし、は……アネモネって、言いますっ……はぁっ……」

「知ってる、『禍の巫女』でしょう! 名前、有名だから!」

「そ、そう……そうらしいです、ね……私……ゆーめい……」

「うん! っていうか、自己紹介は後でいいから、とにかくもっと早く走って!」

「す、すみませ……っ、げほっ……」

 ずっと狭い部屋で本を読んで過ごしていた人を相手に、急に全力で走れとは酷な話だとは彼も当然理解していた。しかし、それでも言わずにはいられないほどに、現在の二人は追い詰められた状況だった。

 暗い夜の森を走る二人の背後から迫る緋色の光は松明の明かりだろう。普段は怖いほどにしんと静まり返っている森も、追いかけてくる人々の喧噪でにぎやかだ。一体どれほどの人数が自分たちを追いかけてきているのだろうかとイリスは気になったが、立ち止まって後ろを振り返り、人数を把握するような余裕はほんの少しも無い。ただこの騒がしさから予想するに、十数人ほどが追いかけて来ているだろうかと彼は予想した。

「とにかく……捕まると、めんどーだからっ……!」

「は、はいっ……」

 華奢な彼女の腕を引く自分もまた、彼女を守るには随分と頼りない体躯をしていると彼は自覚している。
 十数人を真正面から相手出来るほど自分は強いかといえば、残念ながら答えは『ノー』だ。
 精霊の力を借りて魔法を行使する術者である彼は、それほど高度な術が使えるわけではないが、それでもある程度戦うことは出来る。また、今現在も武器である杖を背負ってもいる。しかし術の使用には詠唱が必要であり、基本的に術者は詠唱の時間を稼ぐために剣や槍などの武器を得物として戦う前衛と組む必要があった。

「……いざとなったら、最悪……『女神の力』で……」

 月明かりの下で薄く銀色に輝く水色の髪を乱暴に搔き上げ、イリスは独り言のようにそう呟く。蒼い瞳を薄く細めたその表情は、どこか苦々しく見えた。

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