【徒花】13
2020.12.02
「風よ、集え、凍てつけ」
追手たちが動くより先に、短い詠唱がイリスの口から発せられる。彼の言葉は即座に凍てつく氷を纏う吹雪となり、周囲に荒れ狂った。
「っ……短縮詠唱……」
イリスの前に立つリーダー格の男が、周囲に吹きすさぶ凍てついた風に表情を顰めながら小さく呟く。
忌々しげに呟かれたその言葉の意味は、イリスの詠唱から術の発動の速さが予想外のものであったからだろう。通常であれば魔術の発動にはもう少し長い詠唱が必要となるが、かつて世界を救った英雄たる女神の末裔ともなれば、術を発動させるのに必要な精霊との意思疎通も最低限で可能なのであろう。
「す、すごい……」
イリスの後ろで様子を窺っていたアネモネも、その事実に気付いて思わず驚きの声を発する。そうして驚きに呆然と立ち尽くすアネモネに、振り返ったイリスは「アネモネっ」と小さく名を呼んで彼女へと駆け寄った。
「なにぼーっとしてる、行くよっ」
「えっ?!」
どういうことかと混乱しているアネモネの手を強く引き、イリスは説明はせずにただ再び駆けだす。イリスの行動は追手たちが猛吹雪に襲われて身動きが取れない間に、再び逃げるという判断からのものであろう。あの人数相手にまともにやりあっても勝機は無いと判断したイリスは、一瞬のスキをついて再び闇の中へと身を隠すことを選択したのだった。
「あ、あのっ……イリスっ……!」
困惑するアネモネをひたすらに引っ張り、イリスは全速で夜の森を駆け抜ける。後ろでアネモネの辛そうな息遣いが何度も聞こえたが、しかし足を止めている余裕は無いので、酷だとは思ったが彼は走る速度を落とすことはしなかった。
「はっ……はっ……!」
背後でアネモネの苦しげな短い息遣いと共に、追手の足音が近づいてくる。思ったよりも追い付かれるのが早いと、イリスは走りながら表情を歪めた。
「い、りす、もうだめっ……はっ……!」
「いいから走ってっ」
「むり、ですっ……ぅ!」
どんどん遅くなるアネモネの走る速度にイリスは僅かに表情を歪め、小さく舌打ちする。ちなみにその舌打ちの意味はアネモネに苛立ったわけではなく、自分がもう少し屈強な体格の男であればここで彼女を抱えて走ることも出来ただろうが、たぶんそれは現実的に考えて無理だと察したことによるものだった。
「こっちだっ!」
背後、しかも近くで聞こえた追手の声。イリスは内心でひどく焦りながらどうするかと次の手を考える。その時だった。
「?!」
不意に待ち構えていたのであろう何者かに手を引かれ、イリスは自分が鳥肌立つのを感じる。一体何が起きたのか、気配も感じなかった出来事に彼の表情が強張る。咄嗟に彼が考えたことは、追手が別にいて待ち伏せていた、ということだった。
最悪の事態を予想した彼の視線は、自分の手を引いた誰かへと向く。すると漆黒の闇の中で薄く見えた人影の正体は、桃色の髪をした少女だった。
「こっち」
派手な桃色の髪をした少女は、頭から生える長い兎耳を小さく揺らしてイリスにそう言葉短く伝える。一体彼女は何者だろうかとイリスが判断するより先に、彼に手を引かれていたアネモネが驚く声を発した。
「もしかして……アザレア、ですか?」
「知り合い?」
予想外の反応をしたアネモネにイリスが問うと、アネモネは驚愕した表情のまま少女を見つめて頷く。そのまま詳しいことを聞こうとしたイリスだったが、アザレアに「それより、早く」と声をかけられてハッとした。